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白髪の旅ガラス

長生きするのも楽じゃねぇ

(一)
 戦後六十二年を経た夏、満九十五歳になる元海軍志願兵の太助は、村では上から二番目の長老になっていた。数年前に白内障を患ってから急激に視力が落ち、戦時中の実弾演習の際に耳栓を飛ばして、聴力も弱くなってしまった太助である。だが、数年前にテレビで放映された埴生の宿の主人公が奏でる竪琴の調べは、その優しい音色で太助の全身を包み込み、失った聴力を蘇らせる奇跡、瞬間的に信じさせるものだった。

 硫黄島の玉砕を免れ日本に戻った太助は、すぐに両親や妹や弟の暮らす田舎には戻らず、空襲で焼け野原に変わり果てた東京の片隅に青春の数年間を過ごした下宿先に向かう。そこには将来を誓った許婚が暮らしている筈で、背負えるだけの荷物を背負い身動きの取れない太助は、荷物を上野駅近くの手荷物預かり場に置き、土産の小物だけを抱えて行った。

 立派な門構えであった下宿先は消え、寄せ集めの材料で拵えたバラックの庭先で、彼女と五年振りの再会を果たしたものの、互いの生死も定かでない音信不通の間、あれこれ積もる話が多過ぎたのか、何から紐を解いたら良いのか判らず二人は無言のままである。暫らく太助の顔を見詰めた後で、彼女は家の中へと消えてしまった。それは予想もしなかったことで、動揺した太助は土産を懐に入れたまま、庭中の貧弱なダイコンの葉をただ見詰めるだけである。

 バラックの家の中から、彼女の啜り無く声が聞こえ始めたのは、その直後であった。入れ替わりに、懐かしい下宿屋のおばさんが前と変わらぬ笑顔を見せて、太助を家の中へ招き入れる。すると、涙を拭いて当時の笑顔を取り戻した彼女、正座で太助を迎え、お帰りなさいと頭を下げた。どうにも移り気な彼女の行動が読めず、太助は息子代わりに自分を可愛がってくれたおばさんに、救いを求めて振り向く。

 熱い茶に羊かん二切れを太助の前に置き、おばさんは太助に向かい大変長い事お疲れ様でしたと頭を下げる。それからゆっくりと太助の目を見て、自分の娘が太助とは結婚できない理由を娘に替わって話し始めた。米軍の投下した焼夷弾に焼かれ、子供を産めない身体では、太助の田舎では嫁として受け入れてはくれないであろう。また、出来る事なら太助を婿として迎えたいが、跡取りの太助には無理と諦めたことも。

 話を聞き終えた太助は、懐から土産の櫛を取り出し彼女の髪に黙って挿した。言葉に替えて自分の気持を表したつもりだが、田舎に来てくれとも婿にいくとも、どちらとも言い出せない自分が情けない。仕方なく、太助は手荷物を預けた上野へと踝を返した。それからは何処をどう歩いて帰ったのか忘れたが、上野に着いた頃にはすっかり陽が落ちている。

 太助は、手荷物を預けた店を探し当てることができず道行く人に何度も尋ねたが、軍服姿の太助に親身になって答えてくれるものの、太助の記憶した上野の番地に誰も覚えはなかった。それもその筈、太助が荷物を預けた町名は、上野ではなく御徒町であったから。それに気付いた太助は、店を閉めようとする露天商の婆さんに尋ねたところ、そこは近くだから案内してくれると言う。敗戦の兵ではあったが、海軍の軍服姿は見知らぬ人にも未だ信頼があった。

 漸く辿り着いた手荷物預かりの主人は、店を閉めようとして閉められず困り果てている。それでも、相手が国の為に命を掛けてきた兵隊さんだけに、店を閉める訳にも行かない。暗闇に見覚えのある太助の顔を認めると、自分の息子が戻ったかのように涙を流し、太助の両手をしっかり握る。良く見れば、その顔付きは田舎の父、つまり太助自身に良く似た老人であった。

 大きな荷物を背負い、鶏が猫に追われて逃げ惑う庭先に戻った太助は、大きなむしろを広げ、その上に積上げた大豆の鞘を、二股の枝で懸命に打つ母の背を見ている。手拭で覆った髪に白いものを見付け、出兵してから十年余り、その間に増えていった母の心労と同じ数だと理解した。

 おっかさんと掛けた太助の声は、大豆の鞘を打つ音で届かない。その代わりに鶏を追いかけていた猫が向きを変え、母の頭上を跳び越し太助の膝に擦り寄った。驚いた母は後ろを振り向き、大きな荷物を背負ったままの太助を見付けて立ち上がろうとする。だが、長く座っていた母の脚は痺れ、大豆殻の山に呆気なく倒れて、そのまま太助を見ながら声を出して笑った。

 炭焼きから帰った父が大黒柱の前に座り、囲炉裏を挟んだ向かいの席に一番風呂に浸かった太助が座る。その両脇を弟二人と妹四人が競って座り、母親の割り込む隙は無い。皆が揃ったところで、太助は父に向かって両手を広げ、怪我も無く帰国できたことを告げた。無口な太助の父であったが、この時ばかりは良く無事に帰ってくれたと口にする。年下の弟や妹達は、長男の太助が何を話してくれるものか、囲炉裏の火で照らされた兄の顔を見詰めたまま、手にした飯茶碗に箸を付けない。土間を挟んだ厩では、太い脚に大きな身体を載せた農耕馬も、太助の話を聞き漏らさないよう立てた耳を囲炉裏に向けた。

(二)
 その期待に応えたのは、二十数年経てからのことである。位は低いが古参兵の太助には戦況が仲間内から素早く入り、玉砕寸前に硫黄島から本国に戻ることもできた。だが、多くの戦友は東南アジアの地や南洋の海に骨を埋めて帰らない。それ故、戦中の話を語る相手は生き残った数少ない戦友だけと決めていた。帰国して始めた林業に打ち込み、昔話に浸る時間的な余裕も無かったこともある。その意を変えたのは、二十歳を僅か過ぎたばかりで屈託の無い次男の嫁であった。

「お義父さん、戦争で人に銃を向けたことは」
 そうとは知りながら、誰も聞かなかった戦中の悪夢に触れる質問に対し、太助は平然と答えた。
「自分の手にした銃では誰一人殺していないが、艦砲射撃では何人も殺した筈だ」
 それを良いとも悪いとも決めかね、黙って頷くしかない若い嫁は、海軍生活に話題を変える。
「兵隊さん、特に海軍の兵隊さんは、行く先々の港で女性に持てたでしょう」
 すぐ傍に居た太助の妻は、繕い物の手を休め、太助の返事に耳を澄ました。
「・・・」
 いくら老いても女の嫉妬心ばかりは無くならない。事実を語るより黙っているのが懸命だが、それでは嫁の質問を肯定することになり、太助は何か言葉にする必要があった。
「いや、田舎に毎月の送金があったから、遊ぶ余裕など無かったな」
 嫁にではなく、妻に聞こえるように太助が答えると妻が応じる。
「そんなことはねぇ。彼女が居たんさ」
 その言葉は責める意味など微塵も無く、昔話を楽しむものであった。

(三)
 勇ましく原付のオートバイクに跨り、村の温泉を楽しむのは良かったが、寒い時期の湯冷めはいけない。それが原因で風邪を引き、太助の肺は炎症を起こす。けれど、入院を勧める医者の言うことは聞かず、太助は自らの意思で自宅に戻って数日後、ついに意識を失い緊急の入院となる。

「長生きするのも楽じゃねぇ」
 倒れる前のこと、同世代の仲間が次々に居なくなる寂しさ、肉体も自分の意志通りに動かないもどかしさ、それを太助は妻に告げていた。そんな弱気は、数年前なら考えられないことである。
「俺は、不思議な事だがどこも悪くねぇ。どうしたら病気になれる」
 脳血栓やら腰痛やら、持病を抱えて定期的に病院へ通う妻に憎まれ口を聞くほど、病気には無縁の太助であった。だが、寄る年波に肺炎は容赦がない。意識が戻ったり戻らなかったり夢の中に生きるまま、二ヶ月の戦いを経て老木は倒れた。かつて山師で鳴らした男の最後は、唐松が波打つ山の中で倒れることが理想であったろう。しかしながら、病院のベッドで子や孫に見守られ、音も無く倒れるのも読み違いの多い山師らしい。

(四)
 生まれ故郷で息を引き取った太助だが、ビルマの地で命を落とした仲間の供養を終えるまで、国に帰らないことを決意した兵士を主人公にした映画があるのだから、そうした事実は、あったかも知れないし、なかったのかも知れない。いずれにしても、多くの兵士が異国の地で意に反して亡くなった事実はある。その供養を充分に行う余裕などなかったから、火葬にされることも土葬にされることもなく、腐った屍は鳥や虫に身体を食い荒らされ、新たな命へと組み込まれていったことであろう。

 仲間を供養できなかった悔いは残るが、落とした命は元に戻る訳ではない。供養は、生き残った者の生き方を通じ、死んだ仲間の意志を実践していく他になかろう。そのように、太助はこれまで固く信じて生きてきた。自然が求めるまで生きたかった仲間の意思を、果たして太助は継ぐことができたであろうか。

 三十六歳で帰国してから六十年余りが経つ。その間、弟と妹の六人を一人前にしてから、自分の子供を六人育て孫も十五人になり、ひ孫も四人居る。そんな太助の告別式に参列した人は七百人を超えたが、仲間の意志を充分に引き継いだ証と言えようか。
                                     完
         

by tabigarasu-iso | 2015-12-24 09:00 | 小説 | Comments(0)