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白髪の旅ガラス

命綱

 最近のモダンなビルディングは、外壁にガラスを多用する。地上から五十メートルの外壁に嵌め込まれたガラス窓を拭く男は、高所に恐れを感じる脳内センサを、何処かに忘れてきたのだろうか。白くピンと張った作業綱に身体をあずけ、隣の赤い安全綱が暇そうに揺れているのも苦にしない。

 洗浄液の入ったバケツを座板に吊り下げ、そこへT字型の幅広モップを右手で浸し、ガラスの右から左へモップを上下させて汚れを落とす。左端まで行くと濡れたモップをバケツに戻し、腰ベルトに提げた皮の鞘から水切りを取り出して、左から右へ水切りを上下に滑らせて仕上げ工程に入る。

 ガラス窓は大きく、一往復で窓拭きは済まない。右端に着いたところで、ためらうことなく身体をグッと落とした。腰のあったところへ、頭を瞬時に移動させるものだから、向かいの建物から見ている男の肝を冷やす。そこで再び、右から左へ濡れたモップで汚れを落とす作業を繰り返した。

 暇そうに見物する男の顔がガラスに映ったのであろうか、窓拭きの男は濡れたモップをバケツに納め、窓の方を向いたまま、右手を挙げて親指と人差し指で丸を作る。それこそ命懸けの高所で、命綱が切れることを疑うこともなく、余裕を持って作業する男に比べれば、床や地に足を着いて行う作業など楽なもの。背を見せる窓拭きに、男は深々と頭を下げた。


無駄の無い プロの仕事に 時忘れ
by tabigarasu-iso | 2007-06-23 14:20 | 小説 | Comments(0)